毎日、ちょっと、少しだけ

21歳になりました。いや、もうすぐ22歳です。普通で平凡な暮らしの中にこそ驚きや発見があると信じ、常に面白いことを探し回っています。脚本、小説を少し。

本音と建て前文化

「あなたのこと、よく伝わりましたよ」


この言葉をいただいたとき、すとん、と体に落ちた。なんだか少しほっとして、

ちょっと高揚感も抱いた。

この言葉はちょうどある大手企業の面接でいただいた。

最初から少し圧迫気味、そして容赦ない話の深堀。念入りな自己分析、企業研究をしていないと答えられないような質問のオンパレードに、私は笑顔でたじたじだった。

そして最後、「何か言い残したことないか」という質問に対しての念入りな自己アピール

をした後、まったく笑わなかった面接官が少し笑顔でこの言葉を言ったのだ。

アナタノコトヨクツタワリマシタヨ。


なんとも言えない。じゃあ合格?それとも不合格?うーんあいまいだ。頭の中は不安と

期待が入り混じってたけど、後からその面接官と話したことを思い出そうとしても、その言葉しか思い浮かばなかった。そして私はあの面接官の人のことをいい人かどうかはわからないが、いい方だ、と思った。その企業は結局その面接官によって落とされたが、それでも私はその人に対しての評価は落ちなかった。それはなぜかと考えたけど、面接が終わってすぐには答えは出ず、理由が分かったのは面接の後の外国人留学生との交流会の後だった。



数か月に1回日本人と、日本に住んで4年以上の外国人が集まって話をする交流会イベントがとある市民センターで行われていた。久々にあう留学生もいて、前にあった時よりずいぶん日本語が上達していた。(日本人より日本語がうまいかも!)私と話をしてくれたモンゴル人の女性は日本の大学院に通っており、教授の授業に対する熱意のなさ、授業中の生徒の態度の悪さに愚痴をこぼしていた。


「日本人とは仲良くなるのに時間がかかる・・」


話しの中で、その女性はため息をついた。近くにいた中国人留学生も、「そうそう!」と

おおきく賛同していた。私は日本人って仲良くなりやすくない?と思っていたので、

二人の意見を興味深く聞いた。よくよく聞くと、日本人の習慣である「本音と建て前」

これが外国人にとっては理解ができないらしい。

例えば。モンゴル女性はあるイベントの勧誘をしていて、近くにいた日本人男性に声をかけた。男性はイベントの話を聞いた後、「なるほど。おもしろそうだね。検討してみるよ」といったそうだ。モンゴル女性はこの回答を、前向きに考えてくれている、と判断しその男性から連絡が来るのを待ったが、それからその男性がイベントのことで連絡をよこすことはなかったらしい。

例えばその2。この話はかなりエグい。中国人女性は日本の中華料理屋でアルバイトをしていて、ある日日本人カップルを接客していた。話していくうちに仲良くなり、「このお店、料理がとてもおいしい!」とほめて、店を出るとき二人は笑顔で「ありがとう!」といって去っていき、中国人女性はとても嬉しかったという。しかし後日、そのカップルは店についての苦情を親会社にメールで送っていたという事実が判明したそう。

うーん両者とも日本の「本音と建て前」をかなり悪い方向でくらっている。

思っていることがあるなら、はっきり言えばいいのに!

二人の怒りはごもっとも。日本人はその場の雰囲気をとても大事にするし、それは良い意味では「気を使える」人でもある。輪を大切に、乱さないように、周りと合わせて。小さなときから学校でされたすりこみは大人になっても消えることはない。就活なんてそれが顕著に表れる。それを考えたとき、ふと思った。


同じようなスーツに、同じような髪形。同じようなことを質問する就活生に、似たような対応をする企業。面接時に同じようなことを話して、

「すごいね」「頑張ってるなあ」「笑顔が素敵ね」「営業にほしいなあ」


同じような回答を笑顔でして、そしてさよなら。

落とすってことは、どこかダメなところがあったんじゃないの?腫物を扱うような丁寧な対応をして、そして私たちはもう二度と会えない。その場で悪い雰囲気になりたくないから、その気持ちはわかるし、感情的にならず相手を大切にするのが「大人の対応」というものなのだなあと漠然とも思う。でも褒められたら、誰だって認められた!と思うよ、それでお祈りメールだと、ああ、あの人の対応は全部建て前だったんだなあと思ってしまう、たとえ本当に、心からそう思ってくれていても、結果が拒絶なら何も信じられない。


アナタノコト、ヨクツタワリマシタヨ


20分必死にしゃべって、途中何言ってるかわからなくなって、説明が下手でもどかしくて、こんなんじゃ全然伝わってない!と思ってたら、そう言ってもらって肩の荷が下りた。褒められているわけでもないのに、この言葉が少しうれしかった。君を知ったうえで、会社とあっているかあっていないか判断するよ。そういわれた気がして、この人は誠実な人だと思った。ただほめて相手をいい気分にさせておけばいいだろう、という考えじゃない。この言葉を間を置かずに、しみじみ言ってくれたあの面接官は、頭がきれて、就活生に真摯に向き合ってくれている人なんだと感動した。



日本人にとって「気を使える人」はたいへん好かれる。

でも相手にいやな思いをさせたくない、場の雰囲気を大切にしたい、という思いは

本当に誰かのためなのか。ただ、自分が悪く思われたくない、という自分本位の考えなんじゃないか。


私は誠実な人間にないたい。